~展覧会に寄せて (1998年以降)~

<<2002年4月12日~4月29日 市野英樹個展に寄せて>>
「 坐る・スワル・SUWARU 」


列私は、市野 英樹という画家が、戸外をモチーフにして描いた絵というものをまだ見たことが無い。
室内に坐る人物像が、彼の若い頃からの一貫したテーマである。
かつてその生涯の多くを、アトリエの窓から
差し込む弱い柔らかな日ざしの変化の中で、
装飾性の無い花瓶や水指し、鉢などの器を
くる日もくる日も変わること無く描き続ける
ことで日がな過ごした男が居た。
イタリアの画家・モランディである。
私は、彼の作品を初めて観た時、
「何の変哲も無いこの静物をどうして
こうも繰り返し描くのだろう?
それにしてもこの単純な色使いが、
又魅力的なのは何故なのだろう?」と不思議に思った。
カタログを閉じてしまった後も、彼の描いた
その静物像はしっかりと私の脳裡に刻まれ、
いつまでも忘れることがなかった。
モランディの描いた実在感のある静物は、
こうして私を感服させとりこにしてしまったのだ。
市野 英樹の作品に話を戻そう。
作家がこれまで執拗に追い求めてきた絵画の本質は、
瞑想的かつ構成的で、形態をより完全なものとして
実在感のある人物像を画布に定着させる
行為であったと言って良い。モチーフと色彩こそ
異なるが、私にはモランディと
同じ精神的指向と魅力を感じて
やはり感服してしまうのだ。
実際私の「さんじんサン」(山の神)も、
当画廊の平月の企画展で、コレクションの
市野英樹作品を飾ると決まって
「何か、美術館に来て観ているようね!」と語る。
そう彼の作品には、長い年月、厳しい目利き達の
鋭眼に耐えて美術館に展示されてきた
傑作の持つ歴史の重み感じさせる作品と
同様に威風堂々とした一種独特な風格が有るから、
イタリア美術好きの「さんじんサン」も、
ついそう言いたくなってしまうのであろう。
市野 英樹は、1982年の刊行の「名古屋造形
芸術短期大学(現在の名古屋造形芸術大学)
研究紀要第5号」の小冊子の中で
次のように語っている。
「、、、人物像の実在感をどうしたら表現できるか
調子・色・形・構図等思考錯誤した結果が、
マチエールとして残りました。、、、、」
又「具体的な人物の形態は消えても良かった、、」
とも書いている。つまり作家にとって、
世間的な意味でのちょいとばかり
美しく見せようとか見せ掛けのダイナミズム
などという姑息な手法や誇張は無用である。
もっと自然体で、限り無く人物像の本質を見極めて
いくことこそ重要で、よりリアリティのある作品
として描くことが画家の本分であると
十分心得ているのである。
通常の作家なら人物像に於いて、衣裳やしぐさ、
顔の表情といったことにとらわれがちだが、
絶えまなく移り行く人物像の本質は、
それだけでは見えて来ない。
だからこそ具体的な人物の形態が消えることに
なってもそこにうごめく変わらぬ人物の本質が
実在していることを画布に留めることが
出来るなら形態を捨てても良いと
遠い昔から市野 英樹は気付いていて、
ただ黙々と実践してきたに過ぎない。
市野 英樹の沈思黙考する精神のあり方を
具体化するために「坐る」というテーマも又、
画家本人は、「何故か分からないが、坐る形に
興味が湧く、、」と語るが、 彼がこれまで繰り返し
描いてきた自ら希求するところと実は
見事に符合しているのだ。
「坐右の銘」「坐談」などの言葉にも使われたり、
またお釈迦様は坐して深く瞑想することで、
悟りの境地に到達し得たことは、感慨深い。
嘲笑をこめた野球用語の「スタンドプレイ」も
「シットプレイ」とは言わないところをみても、
立ち上がって興奮して騒ぐことが、
ろくなことにならないのは自明の理である。
兼ねてより私は、市野作品が居間ではなくて、
不思議と書斎のような知的な空間に置かれた時、
その真価を発揮するのは、市野 英樹の
この絵画制作態度がもたらすものと思っていたが、
賢明な諸氏はどのようにお考えであろうか?
今回の当画廊での展覧会では、作家には、
ペンとコンテという画材を用いて描いていただいた。
総点数として普通に考えれば、決して多い点数では無いが、
ペンとコンテだけでこれだけの点数を揃えて行う
展覧会としては、市野 英樹の画家生涯では
初めてことである。市野 英樹のこれまでの
作品を目の当りにしてきた多くの方達は、
すでにお気付きになられたかもしれないが、
今展覧会の特徴はなんと言っても次の点にある。
これまで彼の油彩画や水彩画などに於いては、
人物像をより実在感あるものにしたいという
思いから、絶えず交錯しては揺れ動く画家自身の
裡に突き上げて来るイメージを捕捉する
手段として複数の線を何本も塗り重ねていく
作業は必要不可欠なことであった。
また、塗り重ね更正し直すことで作家のイメージを
より堅固に出来るという利点を併せ持っていた。
今回は、ペン画もコンテ画も、用いる線を
出来る限り少なくして、なおかつ表層的に
陥らないように人物の動きと存在感を
描き切る工夫をしている。モノクロの線描と
数少ない色彩に限定したことに
最初とまどいがあった様子であるが、
作業をし始めると楽しくなったと語っている。
ペン画に於いて特にそのように感じたとも述べている。
今までの市野 英樹の一筆一筆の要素は、
想像は出来てもなかなか見ることの
出来なかったものであるが、今展では、
これを一挙に公開したことに是非ご注目をいただきたい。
華かさとは縁遠いこれらの作品は、
いづれも描かれた人物の寡黙な精神と穏やかな
生命の鼓動が聞こえてくるような
良質な作品に仕上がっていて、
さすが実力者と思わせるものがある。
また、慎重に吟味された明瞭な人物の形象には、
描き進める中に喜びを見つけたという
画家魂と作家周辺の夫人をはじめ愛すべき
人達への思慕の情を感ぜざるを得ない。
じっくりと作品をご鑑賞いただきたいと願う次第である。
さらに奥の応接室に展示したこれまでの
油彩等の参考作品と見比べながら、
今度の展覧会を通じて今日の日本では数少ない、
実在する真の形象を希求する画家、
市野 英樹の魅力をご堪能いただければ、
今展を企画した画廊主として本望である
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<<2001年6月15日~7月1日 平沢重信個展に寄せて>>
平澤の、平澤の緑青”(6/15~7/1)

  

 およそ自然界の人間を含む動物達が
持ち合わせる「視覚、聴覚、臭覚、味覚、
触覚」の5感といわれるものについては、
各動物達が天性固有に持つ優劣の差は
あるにせよ、人間も動物も一応
等しく神から付与されている。この点では、
動物と人間を峻別する手立てが無い。
例えば聴覚について言えば、サイレンの音を
聞くと我が家の近所の犬達は一斉に
けたたましく叫び、不安をさそう。
軽快な音楽を聞かせるとインコの類の鳥達は、
音楽に併せて鳥篭の中を
激しく飛び回る。
臭覚、味覚、触覚についても好き嫌いは
別にしても、良い香りと嫌な香りを
峻別するし、旨いものは、やはり多くの
動物達も旨いと感じる様である。
触覚についても同様で、
自分の気に入った相手が触れて来る
ような場合には、大概警戒心を解いている。
視覚についても基本的には、変わる処が
無いが他の4要素と大きく異なる点がある。
一般に動物達は、自らの眼や声や耳、
羽根や爪や角やくちばしなどの5要素を
つかさどる身体的特質を生かし道具として
利用し、自らの生活の糧となるものを
創造することは出来る。
しかしながら、眼で見たものを記憶し、
描くことによって再現して見せるという
行動は人間に唯一与えらられたものである。
(カワセミが、釣り人の疑似針などを利用して
魚を釣る様子を見て、葉を浮ばせて
葉に寄って来る魚を捕らえるという行動を
見たことがある。
これは、視覚を使って人間の行動を記憶し
再利用した珍しい例であるが、
厳密には描く行為とは言えないだろう)
人間が、他の4要素を駆使して感じたものを
頭脳を使って想像し、眼でみた通りに
再現したり、新しいものを創造出来る能力
こそが、神が人間にお与えた下さった
知恵という最も優れた知的な所産なのである。
前置きが多少長くなったが要するに、
人間のみに付与された絵を描くという行動を
とる時、人間は最も人間らしい時間帯を
過ごせるはずなのである。
だからこそ子供の頃は皆誰でも、
親の指図を特別受けなくても、
黙って自らの脳裏に浮んだ造形を
紙に描くことで満足していたのだ。
それを周囲の小賢しい大人が、
旨いだの、ここが違うだのと云ったり、
よその子と比較するものだから、
たいていの子は、絵を描くことが
嫌いになってしまい、さらに子供の知性の
発展をも阻害することになるのだ。
平澤の作品を見ると、いつもこの絵を描く
と云う原点を思い起こさせるのである。
平澤の作品は人間のみが持つ絵を描く行為に
最も素直に向き合っている。
自らの脳裏に浮ぶ様々な形象が、
長い月日の間に千変万化して複雑な情感を
抱えながら消えては浮び、
より高度な知性で書き直すことはあっても
自らの生活実感を膨大に誇張する必要も無く、
有りのままの等寸大で描いていく姿勢を
終止貫いている点を、私はいつも
好感を持って眺めて来た。
平澤作品に描かれた次元は、
平澤の裡にある現在なのである。
獣医でもある平澤は、
絵の中にしばしば動物を登場させる。
常日頃眼にする人間の喜怒哀楽の日常を、
動物たちの姿形の中にも投影させるが、
それは時として平澤自身の内面でもあるのだ。
今回の作品でいえば「無言」「彼方へ」
「NEKOをまつ日」「夢を追う者」などに
みられる“孤高の人物”のように凝視する
視線や徘徊する姿、又「卓上のNEKO」
「忘れていた日に」「7月のカタツムリ」
のように穏やかな精神の日々を
感じさせる作品、いずれも秀逸で
皆動物を描いているが実は自らの
実感を表している。
さらに平澤の作品には、哀感のただよう人物が
よく登場するが、今回も「顔」「揺れる6月」
「8月の彼方」などこんな人物にひょっとして
出会ったら、そっと手をさしのべたくなりそうな
そんな気にさせる平澤の天性の詩的な部分が
十二分に生かされた佳作である。
人物や動物を点景にして平澤の脳裏に浮ぶ、
好きなものを、そう丁度幼児が一心不乱に鼻歌を
歌いながら描いている時のように、
最も平澤的な典型作品といってもよい作品が、
「いつかみた風景」であり
「初めての場所」である。
特筆したいのは「Tea・Pot」と
「知らないところへ行く人」である。
二つとも摩訶不思議な絵である。
このティーポットは、
誰の為に湧かすものなのであろう。
このポットの囲わりには、まるで時計の
文字のように鳥や木、犬や人物
そして訳の分からない物が
取り巻いている。ポットがぐるぐる廻って
止まった先の口の指す方向に何やら意味が
ありそうで占いのカードを見ているような
気になって来る。
そしてこの首から下が羽根の足になっている
人物はいったいどこへ向おうとしている
のであろう。足が軽い羽根になっているので
さぞかし気軽で、何所へでも飛んでゆける
ことだろう。今くぐろうとしているアーチの
先は、きっと楽園なのかも知れない。
人物や動物の姿が消え建物を中心に描いた
「朱の午後」「思い果てぬ午後」
「流れゆく日」などの作品は、平澤自身の
感性を抑制し造形思考を優先させた分、
物静かな作品になっているが、
むしろこれは平澤自身の休息を
意味しているようだ。今展では、
平澤の赤を中心にした作品が多いが、
その赤を補完する平澤の緑青は、
随所に効果的に配置され使われているが
「8月の傾斜」「訪問者」のようにその関係が
逆転して表現されている作品もある。
平澤の内面に潜む最もプリミティブな
絵を描く楽しみや喜びを敢えて赤と云う色で
たとえるならば、平澤自身が幼児体験から重ねて来た
詩的なものへの憧憬と育まれた知性は、
平澤の緑青と云われるカドミウムグリーン系列の
色彩の中に凝縮されていると言って良いだろう。
長い年月に渡って奇を衒わず、
深刻にも大仰にも傾かず等身大のまま、
感じるままにリアリティ溢れる作品を制作し続ける
天衣無縫の詩人画家、平澤 重信の魅力を
今展を通して尚一層深く味わっていただければ
この上ない喜びである。
2001年6月 梅雨の頃

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<<2000年11月10日~26日内野 郁夫個展に寄せて>>
「追憶の記」

画家、内野郁夫がここ数年取り組んできた
「微光シリーズ」のその静謐で
安らぎと 神秘に満ちた小宇宙の世界は、
内野郁夫の持つ本質が明確に示される
契機となったもので、前回の当画廊での
個展に於いても、御覧いただいた
多くの方達に評判を呼び、また彼の作品の
コレクター層が、あらゆるジャンルの
方達に拡大する一因にもなった。
だがしかしその後の展開を期待する
多くの内野郁夫の支援者達の熱い眼差し
の中で、いまだ筆一本で自活出来るほど
十分な人気作家とはいえず、経済的に
ぎりぎりの生活を余儀なくされ、
およそ世間の流行や文明の機器などと
いうものとは無縁に近い状態である。
学生時代からのマラソンで鍛えた胆力が、
かろうじて健康を保ち、自らの内裡に
浮かぶ形象を、何とか画面に留めたいという
思いとは裏腹に、朝から晩までの
アルバイトの肉体労働による極度の疲労と
拘束の中で、 次の日の為に睡眠という
休息をとることで、その思いを
封じ込める生活が 繰り返えされてきた。
限られた時間の中で描く作品にも
新鮮な感動が薄れてくる日々、
そのことはまた画家として全うしたいと
いう意識と交錯して焦躁と
自己嫌悪に陥るのであった。
こんな思いを裁ち切らせ、精神の
養生をさせてくれるのは、幼少時代から
歩き慣れてきた自らのふる里ともいえる
丹沢山系の山々であり、
そこをトレッキングしながらブナや
クヌギの自然林をぬけ、自生する野草達
との遭遇の時間帯であった。高校時代から
神奈川県下の有数の走者であり、
「箱根駅伝」を当時の中村監督の下で
走りたいと云う願いが早稲田大学の
政治経済学部へ進ませたと云う変わり種の
この画家は20kmや30Kmを走行する
ことは苦にならない。
無駄口やめったに冗談を云わない彼も、
スポーツや山の話とくに森や山野草の話
になると非常に饒舌になる。
シェーネ画廊主との話は、もっぱら、
山野草など植物の話と、陸上競技の話に
終始して時を忘れることが多く
時には、シェーネ画廊主宅に宿泊する
羽目になるほど深夜まで語り合うこともある。
普通人がすぐ忘れてしまうような野草の
名前や種類などに関しても、その驚くべき
正確な知識を持ち併せ、洞察力も優れている。
多くの文芸誌に彼が投稿した『森』に
ついての記述からも彼の森に寄せる限り無い
愛情と優しい画家の視点が見られる。
とは言え、マンネリズムは怠惰な気持ちを
育み、腕から先の技術だけで
安直に作品を作ることで、作り手は達成感を
昇華させ安堵し、結果的に作品は光輝が
失われてくる。凡人の画家は、
ここ留まりであるが、内野郁夫は今、
一つの岐路に立って、もう一度自ら
画家になることを希求した日の
原点から見直そうとしている。
しかしそれはかっての時代に戻る作業では
無く、画家・内野郁夫自身が永い年月
抱えてきた思いを現時点で問い直し、
内野郁夫の画風を真の意味で確立するための
作業でなくてはならぬ。
今回、何度も描き直し仕上げた「残照」や
「想い花」、青春の日々を回想した
「カンタブリアの家」「街角」そして
彼が最も解放され自らを取り戻せる
自然とのふれあいの中にあって
その感動をキャンバスに塗り込めた
「早春記」や「晩夏」ならびに「道標」
や「来夏」などの一連の野草を
モチーフにした作品などはいずれも
彩度が低い作品である。
一見地味で寡黙に見えるがじっとみていると
少しずつ味わい深いものに変わり、
愛おしい気持ちがこちらにも
伝わってくる佳品である。お洒落とか流行を
追うなどとは無縁のような生活態度の
芯の強さと優しさ、幅広い交友関係を
持つ、まさに実直な内野郁夫自身が
具現化されたものと云っても
さしつかえ無いだろう。
さらに内野のいう夕焼けの空を連想させる
茜色や美しい虹色にさらっと水彩で
描いた背景の中に小品のコラージュを
点在させた断章シリーズの作品など、
挑戦的な新規の試みも今回し始めた
ところをみると、殻を破った
新生・内野郁夫の誕生も近い気がする。
楽しみに待ちたい。
2000年霜月   寒い朝

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<<2000年7月7日~23日 藤浪 理恵子展覧会に寄せて>>
「未萌芽」

   


藤浪 理恵子の視線の先にに在るものを、
見てみたい。この不可解な画家の
求めるところは、在世する何ものでも無い
のかも知れぬ。この思いが私の胸中を
廻るようになって久しい。
私の画廊では、今回で2度目の個展である。
知的で雄弁かつ直截的で理に優りがちな
堅物かと思うと情熱家で人にほれ易く、
細やかに気遣う神経を胸に秘めて、
敢えて剛胆で華麗に振る舞う情の人である。
大いに怒るかと思うと、人真似が上手で
パーテイの席で皆を笑わせる道化を
演じたりもする。期限が迫った作品や原稿を
仕上げる為に工房に籠らねばならない時でも、
誘いがあれば無碍に断ることも出来ず、
ついつい今宵も飲ん兵衛がくだ巻く集まりに
のこのこ出掛けて賑わいの中で時を過ごし、
結果その後、毎夜の徹夜作業を
余儀無くさせてしまう。
どんな時でも、いつのまにか主役の一人に
なって先頭を走る。楽しくて、
人なつこくて、おこりんぼで、
話出したら止まらず、人を退屈させない、
一寸寂しがりやの本当に魅力あふれる
パッションの画家なのである。
確かに付き合いの長さに比例して彼女との
親しさは増しているのだろうとは思う。
されど彼女は私には交際の表面上の
理解ではどうしても説明の出来ない、
初めて会った時と少しも変わらぬ、
不可解で新鮮な驚心の画家なのだ。
今度の展覧会も、こうした彼女の精神と
性格に基づく創作姿勢から生み出された
新作に、私が心動かされたことに
起因している。
銅版画家としてデビューを果たした彼女は、
これまで銅版画という紙の作品に
とどまらず木や漆喰を用いた
ミックスメデイアによるコラージュの作品
なども発表して来た。そしてまた親しい
音楽家達と協力して制作した立体的な
作品やコンサートの演出なども度々手掛け、
多才な彼女の側面が美術の愛好家達は無論、
小説家や劇作家、詩人、音楽家達に
これ又好評を博し様々な趣味を持つ
好事家達からも熱い視線を浴び始めている。
今回は、銅板の上に直接テンペラ絵の具を
用いて描いた初めての個展である。
彼女にとって、銅板は常に銅版画を
制作する為の刷りの道具である
以上の意味合いがあるらしい。
一般に銅版画家達は、限定の部数を摺刷
し終わると、版を廃棄処分するのが通例
であるが彼女には、この腐食された銅板を
捨てるに忍び難い愛着と感慨が湧き、
むしろ美しいとさえ思えて、
専用の棚に並べて収納し時折引き出しては、
眺めて楽しむそうである。この度、
一連の作品として誕生するに至った経緯も
こうした彼女の習癖に因るものである。
思うにこうした彼女の行動をみると、
稀にみる程自己愛の強い作家なのだと
思われる。ある種のナルシシズムを
持ち合わせた画家だからこそ、
自らの内へ内へと鉾先を向けて
自身及びもつかないような深遠境地に
到達する快感に酔いしれた時の自己実現を
忘れることが出来無いのであろう。
作品が出来る喜びでも産み出す辛さでも無く、
自身が制作活動に埋没している刹那の
無意識の精神状況がたまらなく愛おしく、
自らの才能と個性と生命の証となる表現を
その時こそ認識出来て自身が麗しく唯一の
存在に見えて来るのでは無いだろうか。
だから完成した作品よりもそのような
自分に高めてもらえた素材を、
誰が言おうとそんなにあっさり捨てる気など
毛頭おこる訳が無い。
況んや、他人がそれを否定したり
誰かと比較して較べようものなら
とても我慢が出来るものでは無い。
「無礼者」として切り捨てるだけである。
何故なら画家、藤浪理恵子は
唯一無二であることを、その人が、
なまじのしったかぶりの知識で
抹殺しようとしたからである。
今回の展覧会のサブタイトル「未萌芽」は、
実は、探っても探ってもあてどない
画家、藤浪理恵子の特大の心の裡を
表していたのだ。
昨日あれほどに、掴めて感動したはずの
思いが今日は、どうにも実感が無い。
彼女の貪欲なまでに旺盛な意欲は、
次々と新しい情念を立ち上がらせ、
それまでの至福の刻を覆い尽くし、
またぞろ新たな迷宮の深奥の淵が
見えてきて興味がそそられるのだ。
ここに描かれた生命体は、普通の人には、
なんの変哲も無い身の回りに
見られる植物に過ぎない。
然るに彼女には、無限の世界に在るものへ
自らを導き近付かせる重要な鍵を
いくつも抱えたエネルギーの塊なのだ。
もはやじっとしてはいられない。
見つめているだけでわくわくとして
血がたぎる。
この思いは言葉では語れない。
つまるところこれらの作品は、
植物生命体の形を借りて、
画家、藤浪理恵子自身の内宮を直視した
表現に他ならない。
だからこそ「至」「対」「慥」「睦」
「奏」「寧」「容」などイメージとして
茫洋と浮かんで来ても
決して限定的に狭義な意味を持つことの無い
漢字一文字の題名こそが、
この抽象的かつ複雑な自分の
感慨を表現する言葉として正鵠であると
首肯出来るのではないだろうか。
彼女が今回発表したほとんどの作品は、
6号大以下の銅板テンペラの小品である。
が、一人の画家としての範疇を超えた
稀有の大樹の魂を持った創造者としての
エネルギーが、摩訶不思議で、何やら
怪し気なこれらの一連の作品を観た者に、
小宇宙を覗いていた積もりが、
いつの間にやら無限の奇想天外な世界に
彼女と共に足を踏み入れて、
語り合い探り合いしている中に、
エロスと迷宮の府とは、
さもありなんとすっかり享受させられる
はめになってしまうのだ。
はじける一歩手前で踏み止まり
膨大なエネルギーを擁して
「未萌芽」の儘で我々の前に屹立する、
憂えるパッションの画家、
藤浪理恵子自身の真骨頂が端的に
表現された作品群であると言えよう。
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<<1999年11月19日~12月5日 山本 靖久展覧会に寄せて>>
「四季・二十四節季」


当画廊では、95年以来2回目の個展である。画家、山本 靖久氏は、このところ彼の所属
する主体美術協会だけでなく、
低迷する美術界の中にあって光彩を
放っている若手の作家の一人である。
そう思っているのは、
わたしひとりだけではなさそうで、
この2~3年あちこちの画廊での催しや
グループ展への出品以来の要請が多い様子で、
先日展覧会があったばかり
なのに又案内状が来たりすると、
目を離せない画家であると考える連中達が、
増えてきているのだなと思う反面、同時に、
追われる仕事に忙殺されて作品の密度が
希薄になりはしないか、同じような作品を
くり返す仕儀になりはしないかと、
老婆心ながら気になったりもする。
今度の個展を、開催するにあたって、
約2年ほど前におおまかな打ち合わせした
段階で考えたこともこの充実度のことで、
画家山本靖久のすでに知られた顔だけで無く
彼の新天地への挑戦を織り込めるような
企画でなおかつ、画廊シェーネの
小スペースを活かせる個展にしたいなどと
話をすすめる内に、作家はこれまで
決められたテーマで一連のシリーズとして
作品づくりをしたことが無いということから、
この最もポピュラーなテーマが
選ばれることになった。
蓋し、我々の住む日本は、
幸いというべきか、温帯地方に属し、
一年春夏秋冬、変化に富んだそれぞれの
魅力ある季節の彩りを十分に味わえる
恩典に浴されている。
もっとも近ごろは、地球環境全体が、
文明のいたずらな発達によって冷夏や
季節外れの台風や今年のような
10月末までの猛暑があったりと
渾沌としてきて、季節感が危うなって
来てはいる。しかし古来より微妙な
この四季折々の変化を享受し生活習慣に
取り入れることによって、我々は、
先祖伝来より培われてきた日本人の
美意識を育み継承してきた。・・はずである。
思うに、この頃の具象系の団体展を見ると、
カオス(混沌)とやらで、やたらと彩度や
明度を落としたり厚く塗り重ねた
人体表現は、不可解な化け物を描いた
としか思えないような作品ばかりが
目に付いて「もういい加減にして欲しい」
といいたくなる程、疲れてしまう作品が多い。
そうかといってきれいきれいな絵ばかりだと、
現実こんなはず無いよと歪んだ心も
起きない訳でははないが、、、、。
いずれにしても一年四季をさらに二十四に
区分命名し、それぞれの季節をそれぞれの
もてなし方や迎え方でメリハリをつけて、
気が付くともうこんな季節になっている
という曖昧模糊でいて、なおかつ明瞭な
日本人の心情を、私は好きであるからして、
このもっとも古典的でかつ普遍的なテーマを、
山本さんが描いてみますと約束を
くれた時、あの和えかな色合いの山本靖久の
絵画表現が、どのように展開するのか
密かな楽しみでもあった。
約束の個展の時期が次第に近付くに連れて、
途中様子を聞いてみると、下絵の段階で悩ん
でいるのでなかなか本画に進めないという。
これまでは、山本さんは制作にあたり自分の
内部にある真実だけをみつめてそれを
具象化し、またバリアントなどを描き、
練り直すことで解決の糸口を見つけて来た
ようであるが、今回は、初めに決められた
主題が厳然としてあることで、
その限定された枠を破らずその主題に
沿いながら、しかも自分のこれまで
描いてきた世界をどこで活かし、
又どのように省略すべきか、
二十四点すべてが独立した主題であるだけに、
その取捨選択に悪戦苦闘している
ような話振りである。
安易に引き受けてしまったがこれは
容易では無いと若干後悔している
風にもみてとれた。
そんなこんなで、最初の約束の
展覧会開催時期を2週間程遅らせる
ことになったが、それでも展覧会初日の
早朝まで徹夜続きの作業で、やっと全作品を
揃えることが叶った。さすがに疲労で
やつれた青白い顏にも、このときばかりは
うやく若干の笑みが見えたが
文字どおりこれは近年の労作なのである。
この一連のシリーズを制作するにあたり、
私は、彼が満足出来ない作品にどんどん手直
しを加え妥協せずに描きすすめていく過程で、
主題と自らの内的なものを次第に統合
充実させて、内なるみずからの開かれずに
いた扉をゆっくりと静かに
押し拡げていっていることに気が付かされた。
彼のこれまでの作品には見たことが無い、
いくつかの作品が産まれているのである。
例えば「黄鴬けんかんす」「牡丹華咲く」
「蓮始めて華咲く」「金盞香ばし」などは、
人物を描かずして、山本絵画の自らの
作品世界の本質とも言える神秘的な気と間が
表現出来ているし、「虹始めてあらわる」は、
遠近法を丁重に駆使して虹の描く弧と相まって
オーソドックスながら実に見る者を
心地よくする世界にしている。
「けつ魚群がる」では、鮭を持つ人物の
太い左腕がクールな顔の表情と背景の
長く緩やかに続く川の流れとは対照的な
力強さにあふれ、夕焼けの空に呼応した
平和で揺るぎない生活のシーンを
喚起させてくれる。これまでの
山本作品の中にはこれらのような明解な
作品は、あまり見たことが無い。
「霞み始めてたなびく」「菖蒲華咲く」などの
茫洋とした淡い色彩の中に人物が溶け込む
作品は、これまでにもみられたものであるが、
いずれもこれまでともすると感じさせる
明瞭な宗教的匂いが無く、淡々として
気持ちを和ませる。
特筆したいのは「桐始めて花を結ぶ」で、
ほとんどグラデーションのみの美しい色彩で
いとおしい和えかな刻の営みを
表現していることである。
「菜虫蝶と化す」「寒蝉鳴く」「玄鳥去る」
「雉始めてなく」などは、これまでの山本
世界の延長線上にありながらも虫や鳥など
主題をさりげなく巧みに配してこれまた季節感を
上手く表現することに成功している。
「桜始めて開く」「雷すなわち声を収む」
「朔風葉を払う」などの動き感じさせる世界も
音の調べまでもが観る者に
伝わるような情緒がある。
その他、いずれも1点1点主題とまっすぐ
向き合って丁寧に仕上げている点は、
好感がもてる。こうしてみて行くと、
彼は、ひょっとすると追い詰められると、
自らの能力をどこまでも如何無く発揮するタイプの
作家なのでは無かろうかと思えたりもする。
今回の作品群が、彼の現時点での一時の
所産であるのか、或いは将来へのより大きな実り
を熟成させるための培養土となるのかは、
画家山本 靖久自身が決めていくことではあるが
この制作にかけた一途なエネルギーと困苦は、
なかなか体験できる事では無く、その結果
生まれたもので、小品シリーズながら
作家30代なかばの精と魂が凝縮された秀逸作品
という意味で1点1点の細部のことを
何だかんだと問題とするより
この一連のシリーズを
一つの一大叙事詩のようにお考えいただきながら
御鑑賞いただければ企画者として本望です。
寒い朝 展覧会初日
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<<1999年9月 吉村 昌也展覧会に寄せて>>
「粉引の魅力 使って知る、違い!」


吉村粉引が、陶芸ファンや料理人、文人達の間でひそかに
愛好、愛用されるようになって10数年になる。
人づてに、次第にその噂が広がるにつれその輪は、画家、
彫刻家、音楽家、美術品のコレクター、建築家、評論家、
美術館学芸員、画商などの陶芸や工芸以外の芸術関係者
達にもおよび、今やまぎれもない粉引陶芸家の名手として
人々の知るところとなり話題に上ったり、テレビの料理番組で
作品が映し出されたりすることも多い。
吉村粉引は、一度手にすると
すっかり魅了されて、又さらに欲しくなり、つい購入してしま
うと 多くの吉村粉引を愛用する人たちが 語っている。
では、この魅力は一体全体どこからくるのであろうか?
吉村粉引の魅力は、第一に古い李朝粉引に見られる特徴を
生かした、そのなんとも深くて美しい白の釉薬の 仕上げにある
と言える。作家が、「巧み」といわれる多くの料理人達やその道の
エキスパート達から絶大な支援を受けるほどになっている今日、
これまで作家が惡戦苦闘して、この美しい白を生成させるまで
に積み重ねて来た困難な道程に思いを馳せると頭が下がる。
作家の身内に陶芸関係者は輩出していないし、
大学も東京外語大の仏文科と畑違いを専攻している。
商社勤めのある日、李朝陶器との偶然の出会いが契機となり
陶芸の道に入ってしまったのだ。
普通の陶芸家達より10年は遅い出発であるが、作家の限り
無い白へのこだわりと精進が、今日、吉村粉引をおいて他に
ならぶもの 無しと言わせる程の粉引の名手として、その地位を
揺るぎないものにしている。
しかしその美しい白だけでは、多くの愛好者がここまで彼の
作品にこだわることはなかったであろう。
吉村粉引のさらなる魅力は、その使い勝手にある。
使い込んで行く中に、部屋の空間や調度品にごく自然な形で
美しく納まりがついていくのは当然ながら、いつも思うのは、
饒舌さや猥雑さとは無縁で、無駄口をたたかず、作品自らは
高貴な薫りを放ちつつも決して他の物を凌駕するところが無い
ということであろう。他の作家の作品では、よくありがちな、
押し付けがましい処や大仰な点を微塵も見せ無いところが、
なんとも嬉しいのである。
また、慣れ親しむうちにやがて形容し難いまろやかな薄緋色に
変貌をとげ、そこに注がれた液体の芳香と味わいを深く、
濃くする酒器や茶器のたぐい、はたまた皿や、鉢、
高杯などにあっては料理を見事に活かし、膳を盛りたてる
使い勝手の良い器としての機能 を十分過ぎるほど務めてくれる。
さらに花器や瓶の清楚な装いには、物静かな存在感が
そこはかとなく流れ、尽きない魅力がさらに倍加されて、
増々惚れ込んでいくというのが実情であろう。
かって詩人の小川英晴氏と共に作家の工房を訪ねた
ある日の事である。
昼食の為にと、さりげなく机の上に先生がご用意して下さった、
特別に奇をてらった風もなく形に愛想があるわけでも無いと
(未熟な私には)一見思われた一枚の粉引皿の向こうで、
折よく来られていた、吉村先生のファンであると言う
板さんが、酒の肴を手早くこしらえ、まな板からひょいと
その皿に盛ると、一瞬にしてその料理が、ぱあっと、光輝
満ちたのは驚きであった。
そしてごく最近では、酒噐のひとつとして新に考案された
麦酒杯にも、又またいたく感服させられてしまうのだ。
私は、缶ビールのあの缶の臭いが気になって、
たいていビン詰めのビール を飲むようにしているのだが、
この吉村粉引の麦酒杯をもとめて帰るとすぐ、
味を試したいと冷蔵庫を探ったのである。
生憎、缶ビールしか買い置きが無い。仕方なくそれを
この器に注いだ。
ところが、通常のガラスコップに注いだ時と異なり、
実に極めの細かい泡が立つのである。
おやと思いつつ ぐいと一息口に含む。と、なんと
私の嫌いな缶の臭いがほとんど消えている。
しかも舌先に滑らか。あのビア樽からつがれた時にしか
味わうことの出来ない生ビールの如くの芳醇な味わいが、
口腔に拡がるではないか!
こりゃ、ひと味ちがうぞ!!思わず口にしてしまった。。。。
その後は来客の度に、これを持ち出しては、ビールをすすめ、
ひとしきり「吉村粉引」談義の日々である。
勿論、ビンビールであれば尚さらの味であることは
云うまでも無い。
目下この麦酒杯が、凄い人気で、制作が追いつけないほど注文が
あるということも、うなづける。
こと程さように、吉村粉引は、愛用者一人一人の思いが
積み重ねられていき、ただ単に観賞用として
床の間に鎮座するだけに留まらない。
それは、吉村先生の求めるところが、形や色や重量などの
技量が及ぶところのみに過度に神経質にならず、華美にも、
奇を衒うことなどもなく、ひたすら生活する人間の視点に
立って、おおらかな陶器本来の用の美と力を如何なく、
併せ持たせることに主眼を置いて、
心して制作して来られたからに相違無い。
即ち、これが吉村粉引の神髄「使って知る、違い」と
いうべきもので、前述のような広範囲に
亘る分野の人達が、これまでそれぞれの吉村粉引との目を
見張るような思いがけない体験を胸に秘め、次々と密かに
作品を収集愛用し続け、さりげなく人に見せては、
自慢したくなってしまう所以があると思われる。
吉村粉引はこの一両年、その白の美しさに形、焼成、機能の点でも、
筆舌に尽くしがたい完成度の高い領域に入ってきたことは、
論を待たない。
吉村 昌也先生と吉村粉引を敬愛するものの一人として、
是非皆様にも御愛用いただき、コレクションの枠を増やしていた
だけることを切に願うものである。
/su_column]

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<<1998年11月13日〜12月2日 成田禎介個展に寄せて>>
「清澄なるものの囁きに聴く」


画家、成田 禎介の作品が、多くの美術愛好家の眼に
とまって以来すでに、四半世紀が過ぎようとしている。
30歳をわずかに超えたばかりで、日展の寵児として
早くも注目された作家は、今日まで一貫して
その透明感溢れる画面でファンを魅了してきた。
彼が描く風景画のテーマは、片田舎の森であり、小さな集落や、
人里離れた燈台であり或いは一見何の変哲も無い港であったりする。
「人と自然が、溶け込んでまじり合っている姿に惹かれる」
と語る通り作家は、自然の中に息づく人の気配を感じながら、
自らの裡に潜む原風景と対峙させて、大事にひと筆、
ひと筆を画布に塗り込めてきた。
各地を旅行して何枚もの風景を描いてきた画帳は、
アトリエに戻って、白いキャンバスに向かう時、
繰り返しページがめくられる。やがてイメージが膨らみ、
現地で取材をした時に直感した光景を超え、
最も浄化された自らの心の故郷もしくはユートピアへと
美しい変貌を遂げたとき、筆に染み込んだ絵具は、
キャンバス上で色彩の線となり面となって溢れ出る。
その時すでに、そこに描かれた風景は、
特定した場所である必然性から解き放たれ、
絵画としての造形性が追求される世界へ、
しなやかな画家の手によって画面上で自由に切り取られ、
ひとつのモチーフとなって飛翔する。
こうして自らの裡にある真実に近付けるために、
作家は、納得するまで繰り返し、削ったり
書き加えたりしながら手直し、再構成して作品を仕上げてゆく。
従って彼の作品は、単に観たまま、あるがままを
写しとったわけではなく、作家自らのプリズムを通じて
観た地球上の森羅万象が、純度の高い透明感溢れた真実の姿に
昇華してゆくのを見届ける手探りの作業の結晶なのである。
作品はやがて輝きを増し、穏やかさをも同時に包み込んで、
次第に完成に向かってゆくのだ。
静物を描く際にも、その作画態度は変わらない。
「ぶどう」や「プラム」そして「なし」や花々などを
好んで描くのも、人間に与えられた大地の恵みを実感し、
水分を多く含んだその透明性に心惹かれるからであろうし、
またその形態が作家の好む原始的な造形と
結びつくからであろうと想像される。
「私は、ガラスものが好きなんです」とある日、
画家、成田 禎介は云った。
なるほど、アトリエの片隅には色とりどりのガラス玉や万華鏡、
そして美しいガラスの装飾品を並べたコーナーが
きちんと整理されて置かれ、作家の趣向が歴然としている。
彼は、油彩の地塗りに、チタニウム、ジンク、シルバーなどの
ホワイト系の絵具を使い分けて用いるらしいが、
中間色の使用の際には、顔料のみで作られた絵具を用い、
ホワイトを混色して彩度を下げるような
中間色は用いないそうである。
つまり色の冴えを大事にしているとのことである。
作家の嗜好と描法を徹底して一貫させたこの生き方が、
彼の作品を観る者の心に、造形的には堅固な安心感をさそい、
情緒的には、澄んだ透明性で満たされた
静謐なひとときを感じさせてくれる所以なのであろうと私は思う。
画廊シェーネでの10年振りの今度の個展では、
パステルとドローイングが21点発表される。
一般的に、パステルやドローイングは、
画家の筆使いの一呼吸一呼吸がより強く観る側に伝わってくるので、
様々な絵具で描かれた作品の中でも私が特に好きなメデイアである。
作品を描く時点の作家の想いや躊躇などの
一挙手一投足をその筆致から勝手に想像し、
絵を見るだけでなく思いを馳せることで、
作家との一体感をまがりなりにも味わえる気分になるからである。
況んや画帳や取材ノートなどは、作家の個性そのものであり、
生の作家を知り得る最大のよすがともなるもので、
作家が手放しても良いようなものがあれば、
是非自分のコレクションに加えたいと考えるくらい、
私には興味が湧くものなのである。
成田 禎介のパステル画にも、画材として
パステルの持つ特質とモチーフとの関係を知り抜いた、
画家の抜きがたい感性と用意周到な性格との
相剋が同様に顕著に見られる。が、彼の作品の放つ光輝と魅力は、
さらにもう一段違うところに求められる。
出来上がった作品をじっと見ていると、
確かに成田 禎介の所産であるにもかかわらず、
描かれたモチーフを媒体とする作品そのものが、
最後の筆を置かれた時点から画家の手を離れ、
自己呼吸をし始めたとしか思えないような錯覚に捕らわれて来る。
母親の胎内に新しい命が芽生えたときのように、
画家、成田 禎介の手によって別の新たな生命体が誕生したのだ。
ともすると、作品を画家の費やしたエネルギーの残滓に終わらせるか、
形骸化させて、画家本人のカタルシス効果以外の意味を持たせず、
混沌とした世界に留め置くことを当然の如くに考える現代作家が、
近頃輩出するのをみると、あるがままの美しさを引出し、
自らの息吹で画布に命を与えることに腐心する
あの画家本来が持っていた原点の姿勢をかたくなまでに
守って描き続ける生き方は、敬服に値し、
私は軍配をあげたくなる。時間をかけて思いを
塗り込めてゆく堅固な油彩作品の仕上がりと同様の
タブロー画としての完成度の高いものが、確かにここにはある。
生のままの画家の粋と美術としての質の高さが、
鑑賞者に直載に伝わってくるこれらのパステル画に
多くの人が魅了される理由もうなづける。
作家はどちらかというと、このパステル画を、
これまでそう多く発表することは無かったが、
今回、身の回りの日常的な事物の中で、
今まで選ばなかったモチーフをパステル以外の
コンテ・水彩などの画材を用いて4号の作品に
さりげなくまとめたり、サムホール大のパステル画なども描いている。
これらの稀少な小作品にも、
対象に対する作家の自然体の優しい眼差しをうかがい知ることが出来る。
成田 禎介のこの清澄なるものの囁きに聴く
珠玉のような逸品を存分にご堪能いただけたら幸いである。
1998年秋深く 柿の実の熟す時 
 

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<<1998年7月 画廊 シェーネ15周年記念展に寄せて>>
「回顧15年 せんすの無いうちわ展」


気が付けばもう15年という感じです。めくらヘビに怖じずというか、
銀座の画廊での約10年の勤めを辞めて、
先々のことなど余り心配することも無く
この保谷の自宅を改造して開廊したのが1983年の初冬でした。
今思えば、どうにかなるだろうと安穏に構えて
いられたわけですから30代の半ばとはいえ、
やはり私も若かったのでしょう。
最初の個展企画は、ドイツの現代作家、
ホルスト・ヤンセンの版画展で、翌年の2月に行いました。
私はヨーロッパやアメリカで時々見られる
ホームギャラリーが頭にありましたので、
特別に眼新しいことをしたとは、思っておりませんでした。
ただサラリーマン時代に溜めたわずかな資金しかない自分には、
作品仕入れ用にある程度の資金を確保しておく為には、
固定経費に多くをかけられないと考えておりましたが、
この近辺の繁華街を一応市場調査をしてみました。
結果は、好みの場所がみつからず、
自宅を改造して開廊するのが一番経済的であると云う結論に
落ち着いたにすぎません。
が、日本のマスコミ的には、当時はまだ物珍しかったようで、
なぜこのような住宅街に画廊をオープンしたのかと、
毎日新聞の記者が様子を見に訪ねてこられました。
二三日後には、記事として紙面の1/5位を使って
大々的に写真入りで
当方の画廊を取り上げていただきました。
続いて企画したオランダのシューリスト、
アンソニー・ゴセラ(ホッセラー)の個展では、
今度は同じような扱いで朝日新聞に、
やはり大きく報道していただきました。
展覧会の期間中、問い合わせの電話がひきりなしに架かってきて、
驚かされました。
日本人作家の最初の企画は、
松原 龍夫先生の水彩画展を行いました。
知り合って間も無い頃であったにもかかわらず先生には、
快く個展を受諾していただき、作品も当時暖めつつ
進めておられたユニークな発想を駆使した新作を
10数点出品していただきました。
この企画は、今でもとても良い企画であったと思っておりますが、
今度は読売新聞の記者がお越しになり、
翌々日の朝刊にやはり画廊内部の写真と共に展覧会のことを、
大きく取り上げていただきました。
このとき展示した作品の中から、
画廊シェーネとして初めてある公的美術館に、
先生の作品をお買い上げいただけることにもなりました。
これを契機にその後もいくつかの公的機関に
別の作家の作品なども納入させていただき
美術館関係者や美術記者の方達とも色々とお話を
伺う機会がさらに増えました。
その後も、企画の度に次々と別の新聞社の記者達が
来廊され報道していただき、この最初の1年間は、
マスコミ関係の方達とじっくり話をすることが
銀座時代より多いくらいでした。
マスコミの関係者達が、なへんに興味を示すのかを
少し知り得たような気がした年でした。
以来15年、当画廊では、年間3〜5回の個展を
3週間位の単位で行っています。
個展の無い月は、三越様、大丸様、松坂屋様、熊本鶴屋様などの
画廊担当者の方々のご協力のもとで、
提携して個展やグループ展を開催し作家と作品を
ご紹介させていただいて参りました。
個展の無い時でも、わざわざ遠方から美術誌の
広告や記事を見て当方を知られた方達が、ご来廊されることがあり、
この有難いご奇特なお客様達の為にも、
数年前からテーマを決めて
月替えの企画展を行っております。
当方の企画は、抽象的な作品もあれば具象もあります。
特に決めた傾向の作品だけを展示するわけではありません。
私が、見て納得した作品で作家が当方で
展観することに躊躇無い方ということになります。
それでも近頃では、
「これはいかにも、シェーネ好みの作家だ」などと
おっしゃる方がいらっしゃいます。
私は勝手に、「そうか、画廊シェーネにもそれらしい色が
やっと付いてきたということか!」などと自分に都合良いように
解釈しています。他人は、これを称してノー天気だと申します。
お蔭様で、いろいろな方達と知遇を得ましたが、
反面どうしても縁が無かったり、切れた方もいらっしゃいます。
15年は喜怒哀楽、悲喜こもごもです。
今は亡き安徳 瑛先生を初めとして内外の多くの作家達や、
この間知りえた美術関係者、美術愛好家、
コレクターの皆様方のご指導とご支援に支えられながら、
恐縮ながらいまだに5分ほどもお気持に答えられずにおりますが、
とにもかくにもなんとかまずまず過ごしてまいりました。
特に1昨年(1996年2月)亡くなるまで
20年以上の付き合いをさせていただいた、
故安徳 瑛先生(享年55歳)には、
公私にわたり様々なことを多くを学ばさせていただきました。
現在お付き会いを頂いている作家や美術愛好家の方達も、
安徳先生が元々御紹介くださった方達も大勢いらっしゃいます。
この間、先生の画集も当画廊から3冊発刊させていただき
当画廊を代表する記念碑的な出版物となっています。
「奥田さんとは、死ぬまでだね」と、
ある日銀座でお会いした時に小さな喫茶店の隅で、
ぽつりと語った先生の言葉が、とても印象的で
そのときの情景をいまでも思い出し少しセンチな気分になります。
勿論、その時はこんなに早くその最後の日がくるとは
思ってもいませんでした。
先生亡き後の1年位は、どうしてもなかなか前向きに企画展を
行う気持になれませんでした。
小さな画廊の15年ですが、書けば色々のことがございます。
退屈の無い15年ではありました。
詳細はまた別の機会に譲ります。
この秋で、丸々15年を過ぎようとしている画廊の
ひとつの区切りとして今回の企画を計画いたしました。
幸いなことに、前述しました通りの、
気ままで、軽率で、とても「センスのある」画廊主とは
思えない私と 画廊シェーネであるにもかかわらず、
これまで辛抱強くお付き会い頂いた作家の方達ほか
皆様方の格別の御協力を得まして、
この度“せんすのない企画 うちわ展”を開催できる運びとなりました。
ぜひ、“遊び心”でご高覧いただき、お楽しみいただければ幸甚です。
最後にあらためまして茲に、当画廊を支えていただいた皆々様方に対し、
これまでの失礼を、お詫び方々深甚の謝意を申しあげたいと存じます。
さらに今後共、変わりませず末永いご指導ご鞭撻のほど
お願い申し上げご挨拶とさせていただきます。
1998年7月 いよいよ暑くなる気配の上天気
画廊シェーネ 店主   奥田 聰拝

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<<1998年5月 藤浪理恵子「初銅版画集発刊」展に寄せて>>
「ドミノ(フランス気質)」


なにやらもの憂げで、妖し気なそのうすぼんやりした
人物像の作品に、おやっと心惹かれて、
その作家の名前に注視してからもう10年以上の歳月が
過ぎているかも知れない。新人というふれこみにしては、
ばかに老成した作品を描く作家という印象を持った。
以来、藤浪 理恵子という名の画家が、私の脳裏に刻まれた。
どちらかというと人物や顔を描いた作品は好きだと
自分でも思うが、特別意識して集めているわけではない。
気が付くとそれを選んでいるというのが実状である。
藤浪 理恵子の作品もそのほとんどが人物像であるが、
特に人物にこだわっているのではなく、
頭に浮かぶ興味ある題材を絵にすると結果的に
人物像になっているのだと彼女はいう。
藤浪 理恵子のどこに魅力を感じるかというと
一概に申し上げられないが、私がすでに遠い記憶の中に留めて、
もう忘れかけていたあの懐かしい感覚を
想起させてくれるからとでもいえようか。
彼女の描く人物像に、精緻で迫真の描写力があるわけでも、
説得力のある強烈なリアリテイがあるわけでも無い。
だからといって甘美で夢想するような
ロマンチシズムに満たされているということも無い。
あぶり出しのように、ある時間の経過と共に
じっくりと像が浮かび上がってきて、
いつのまにか観るものの心の中を満たし、占有してしまうのだ。
彼女の作品の人物の眼は大抵うつろで、視点が定まっていない。
曖昧摸糊としている。いったい全体あのの三白眼は
どこを見つめているのだろう?
曖昧さは、眼に限ったことではなく手や体の動きにもみられる。
しかしながらこのあいまいさゆえに、作品が広がりを持ち、
くどくどした説明的な多くが省略出来て、画面を陳腐にさせない
でいるとしたらそれはそれで彼女の作品を特徴付けていることになる。
詰まるところ、彼女の画家としての態度が、
閉息された人間社会のひとりひとりの個を見つめる
姿勢は失わず、しかし肉迫するほど近付き過ぎず、
人が人としてなじめる距離を逸脱せず、自らの
裡に沸き上がるごく自然の情を淡々と表現してゆく。
そんな自らの条理に素直な当を得たやり方を
画家、藤浪 理恵子は当たり前に行っているのだと思う。
しかしこのことはともすると、不確実で
未成熟で奔放な情念の生成過程で育むべき新芽を
途中で摘む制止力が働かないとも限らない。
十分に昇華してゆくはずの可能性を秘めた美意識を、
狭量なナルシズムで封じ込める危険性を併せ持っている。
しかしながら行き過ぎもせず不十分でもない
この混濁したような世界が目下のところ人の理に
かなうほどよい魅力になっていることは確かである。
その意味で、彼女が行う様々な表現方法の中で、
刷の偶然性に期待が出来る銅版画という技法は、
彼女の特性をより的確に伝えることのできるメデイアともいえる。
しかも彼女がこれまで、細部にこだわるメゾチント技法を
あまり多用せず、若干恣意的な部分を
弱められるエッチングなどの技法を好んで選び
制作してきたことも頷けるのである。
藤浪 理恵子自身の造形言語と言える人物表現が
生まれてくる生成途上の段階として現時点を
見たとき,ここに優れた作家の持つ資質と
可能性の発露をみて良いように思う。
今回の画廊シェーネでの個展では、
17世紀ロココ時代を代表するクラヴサン曲の作曲家、
フランソワ・ クープラン(通称:大クープラン)の
代表的クラヴサン曲集である「ドミノ」12曲の音色が
連想させる人間模様を、13点の銅版画で描いた
彼女の新シリーズの作品を展観する。
これらは、藤浪が生涯で初めて、音楽の中の絵画性に
着目した作品群で(あるいは曲の題名と聴覚から派生したものを
視覚言語で捉えなおした彼女の内的な創作テーマといっても良いが、、)
彼女のこの曲に寄せる熱い想いを
是非にも伝えたいとする意欲作なのである。
彼女がそもそもこの曲集に関心を持つようになったのは、
彼女の友人である演奏家、武久源造氏の依頼を契機に、
彼のリサイタルの曲目であるこの曲集に振り付ける
踊りや光などの構成による舞台美術の総合的な演出を
引き受けたことに拠っている。
彼女は、この曲集の表す、ドミノの仮面の色に
因む色彩と人格描写に大いに惹かれた。
曲の意味する限定された枠の中で、主題の人物を想定し
作品に仕上げていく過程で、これまで自然に頭に浮かぶままに
描いてきた人物像とは、全く別の人間を描ける面白さに気づき、
これを自分の作品として残しておきたいという衝動に駆られ、
あらためて約1年半の歳月をかけて構想を練り直し仕上げたのが、
これらの銅版画である。
この曲集の底流に流れる男女の人間模様は、
これまで彼女が文学や聖書など、他人の造った文章をたよりに
頭の中で論理的、言語的に制作してきた作業、
つまり脳生理学者、スペリーの云う常識や知識などの
理性に関わる左脳中心の発想を駆使せざるを得ない
ロゴス的制作から解放され、いわば彼女自身に内抱する
未知もしくは無意識のパトス的感性に働きかけて制作する
ことをより可能にした。
これまで出来るだけ隠蔽しておきたいと思っていた女の情念も、
従って前面に押し出すことに戸惑いがなくなり、
この何とも典雅という他ない「ドミノ」の曲集の音色
から連想されるイメージの中で遊べる楽しさを味わい、
同時に彼女自身の閉息した日常性を打ち破ることが
出来たのではないのだろうか?
例えば、「はじらい-ばら色のドミノ」の作品に
みられる女性の髪について、
彼女は、「これまで女性の髪は女の一部でしか無いと考えると、
女の象徴として描くことに抵抗があったので描いたことがなかったが、
今回この作品の中で、はじらう女性の一瞬を描こうとすると
描かざるを得ない心境になった、、
これをきっかけに今まで極力排除してきた女性の部分を
目一杯出そう、、身体全体で表現すべきだと
この音楽が教えてくれた」と語っている。
彼女はこの作品の制作にあたって、
クープランの生きた17世紀から後半のバロック・ロココ時代
の社会状況や衣装についての学習をかなりしたという。
この音楽の作られた時代をただ単に知識として知るだけでなく、
我々が先祖から連綿と受け継がれてきたDNA因子の門を
感性を指標に、ひとつひとつ叩きながら、
だれもが簡単には行き着けそうもない未知の領域に足をのばし、
生命と自らの真実に辿りつく為に、
すっかり17世紀人になりきり作品の中に自らを立たせることで、
現実感を余すところなく享受出来たのだろうと思われる。
彼女が意識しているのかどうかは分からないが、
視点の定まらない作品の登場人物の、あの三白眼は、
あるいは世紀を超えたところを見つめる
藤浪 理恵子自身の眼なのかもしれない。
今後、彼女が画風を大きく変化させるかどうかはわからない。
しかしこの作品「ドミノ」を発表したことで得たものを元に、
彼女が自らの、まだ見ぬ眠れる才能に火を点して、より大きく深く
なっていくことを願わずにはいられない。
1998年 藤の花の咲く頃